基督教思想在日本基督教起源 日语翻译
作者:深度配音 · 2020-02-13 23:38:54
1.基督教思想在日本基督教中的地位 由于基督教在日本尚不为大众所知,因此我想对基督教思想进行初步解释,同时在基督教思想的相关情况下阐明日本基督教理论在其思想文理下的地位。从历史的长远角度来看,日本基督教的思想并不特殊。
在历史上,基督教与世界各地的文化相互联系,创造出了多种形式(3)。基督教最初是犹太教的一个派系,后来与古希腊文化接触,进而演变为基督教。基督教被罗马帝国正式承认为国教,从此在地中海区域固定下来,并为将来从欧洲向世界扩张奠定了基础(4)。
在思想方面,基督教具有整体主义和个体主义双重倾向。首先,在基督教的理论中,上帝创造了这个世界。基督为了在全世界传教,而旨在将基督教打造成一种整体主义的学问,超越国家、民族、宗教的范畴,向所有人传播。另一方面,基督教主张宽恕个人的罪过和救赎(5)。并且,对于信徒而言,他们能够在日常生活中感受到罪过和救赎。因此,基督教会将每个人的生活转化成背景以充分理解每个个体。因此,基督教在历史上与世界各地的文化和社会互相融合,并在思想上寻求普遍性,同时也包容个别不同的理解方式(6)。
纵观历史背景,日本基督教也是日本基督教徒将传到日本的基督教与日本文化和社会联系起来的一种尝试。可以说,这在基督教的历史上并不算是特殊的尝试(7)。
1.キリスト教思想における日本的キリスト教の位置 キリスト教思想はあまり知られていないので、キリスト教思想の予備的説明をしつつ、
その思想史的文脈における日本的キリスト教論の位置を述べたい。 歴史的に長いスパンで見れば、日本的キリスト教という発想は、特殊なものではない。
歴史の中でキリスト教は各地の文化と結びついて、さまざまな形態を作ってきた3。ユ ダヤ教の一派として始まったキリスト教は、ヘレニズム文化と触れてキリスト教として 成立し、ローマ帝国に公認され国教となったことを通して地中海地域に定着して、ヨー ロッパから世界に後々拡大する基礎を得た4。
思想的にも、キリスト教は普遍的傾向と個別的傾向を持っている。まず、キリスト教 では、神がこの世界を創造し、キリストは世界中への布教を命じたために、普遍的な教 えであることを目指し、国家や民族、宗教を越えて、どの人にも教えようとする。その 一方でキリスト教は、個々人の罪の赦しと救いを説いている5。しかも罪や救いは、信者 にとって日々の生活のなかで感じられるものであるから、個々の生活を背景にして把握 される。それゆえキリスト教は、歴史的に各地の文化と社会に融合してきたのであり、 思想的にも普遍性を求める一方で、個別の解釈を包容してきた6。
このような過去の経緯を眺めるならば、日本的キリスト教もまた、宣教されたキリス ト教を、日本の文化と社会に結び付けようと日本のキリスト教徒が行った試みであり、 キリスト教史のなかで特殊な試みではないといえる7。しかしながら、キリスト教を結 びつける方法や内容は、時代や地域によって異なっており、それぞれ多様な特徴や課題 を伴っている。そのため、日本的キリスト教を題材にするためには、その背景を詳細に 踏まえることが必要である。もっとも、背景として踏まえるべきことは数多いけれども、 本発表で言及するのは、次の2つの点にしたい。プロテスタントの組合派教会を中心と
する日本のキリスト教史、およびドイツのキリスト教思想の動向である。この2点に触 れることによって本発表の背景と意図を明確にし、その上で日本的キリスト教と諸宗教 との関りについて論じたい。
2.日本のキリスト教史における日本的キリスト教論 日本的キリスト論は、様々なキリスト教教派に所属する人物によって論じられている
が、その中心は組合派教会に属する人々である。たとえば最初期の日本的キリスト論は、
え び な だんじょう
組合派教会の牧師である海老名弾 正(1856-1937)によって発表されている。また、理
うお き ただかず
論的にまとまった主張をしたのも、組合派教会の牧師であった魚木忠一(1892-1954)
である。組合派教会を中心に議論が継続したことには、おもに三つの理由が考えられる。 一、日本のプロテスタント・キリスト教史のなかで、組合派教会は最初期に日本に広ま った主要な教派であり、二、その指導的メンバーは士族の子弟だった。さらに、三、神 学的に自由な試みをする傾向があったのである。
組合派教会は、英語で「congregational church」(会衆派教会)であり、幕末に渡米 した安中藩士の新島譲(1843-1890)が宣教師として帰国して宣教を始めたことをきっか けに勢力を拡大した8。新島は 1875 年に京都にて同志社英学校(現在の同志社大学)を 設立した。組合派は、思想的な自由と教会の自治を尊重する伝統を持っているため、同 志社大学で学んだ人物は、キリスト教思想の新しい課題に取り組む傾向があった。たと えば日本的キリスト教論の嚆矢をなした海老名には、植村正久(1858-1925)との間に自 由主義神学をめぐる論争がある9。同じく明治初期に伝わった長老派教会は、長老組織 が教派の教会を監督し、信仰の伝統的な規範を重視する10。アメリカとイギリスの長老 派系ミッションが共同設立した教会の牧師となった植村は、自由主義神学を擁護した海 老名を批判した。とくに海老名が展開した儒教的教養を基礎にしたキリストについての 理解を批判して、キリスト教の伝統を踏まえた理解を訴えたのだった。
次に、日本のキリスト教とドイツのキリスト教の関わりを説明したい。日本に宣教を試みたプロテスタント系キリスト教団体のうち、教の核心である「愛」が日本精神の 重要な要素でもあり、その愛をより確実にするためにキリスト教が、日本精神の宗教的 基礎となるというものである22。同様に仏教や神道も基礎づけの位置にあって日本精神 を発展させるのであり、日本精神の内容に沿っているから諸教は一致すると言いうるの である。
さらに極端な例が、組合派教会の牧師、藤原藤男である。藤原によれば、キリスト教 教徒は、キリスト教徒である前に日本人であり、だからキリスト教徒も日本精神を持っ ているのである23。同様の論法で、日本の仏教とも仏教徒である前に日本人だとなる。
以上のように、魚木、今井、藤原において問題となっているのは、日本人として信じ ることであり、日本精神や国民意識という民族的な意識を持つ私が信じるということで ある。それゆえ、民族的な意識の下で信仰が再解釈される。この考え方は、暗に他宗教 にも適用され、日本精神のもとで諸宗教は一体的に捉えられる。したがって、日本的キ リスト教論の基本的な構造において、諸宗教を接合するのは民族的な意識であり、その 上で諸宗教は国家の発展に協力するとされるのである24。
もちろんその接合の仕方は曖昧であり、本当に諸宗教が一致しているのかどうかは判 然としない。ところが、曖昧であっても、日本人であることとキリスト教徒であること の結び付けは、キリスト教思想の文脈にて軽視することができない。というのも、一人 一人の信仰告白を求めるキリスト教は、どの私が告白するのかという問題を避けて通れ ないからである。第二次世界大戦後、どの私かという問題は、キリストによって罪を赦 された人間を、基本的人権を持つ人間と結びつけて論じられるようになった。たとえば カトリック教会は、ヨハネス 23 世が 1963 年に発布した回勅の「地上の平和」におい て人権を積極的に認め25、キリスト教と諸宗教の対話においても、人権の尊重が諸宗教 を互いに結び付ける接点になった26。しかし、人権を普遍的価値として認めるこのよう な試みには、現代において疑問も提示されている。人権の内容について諸宗教の間に議 論があり、また民族と宗教の接合は過去のものではない。
終わりに
本発表では、1880 年ごろから 1945 年頃まで続いた日本的キリスト教という思想的 系譜を取り上げて、その思想的背景を主に日本のキリスト教思想に影響を与えてきたド イツ、アメリカとの関りから説明し、その上で 1930 年以降の日本的キリスト教論にお ける基本的な理論的構造を明らかにしようとした。その構造は、日本の民族的な意識に よってキリスト教、仏教、神道などを接合することで、諸宗教を国家発展の基礎にしよ うとするものだった。このような発想自体は目新しいものではなく、その接合にも具体 性はない。しかし、民族的な意識による接合は、キリスト教信仰を理解する方法と不可 分の問題であり、当時のドイツと並行する類似性があったのだった。一方で、それに対 抗していたのはマルクス主義を受容するキリスト教思想であり、第二次世界大戦後、キ リスト教的人間観を基本的人権に結び付けることで教派や民族を越えた普遍的な信仰 理解が試みられてきたが、いまだ問題をはらんでいた。
このような時間的、地理的文脈において振り返るならば、日本的キリスト教論は日本 だけの現象ではない。現在とは異なる第二次世界大戦以前のキリスト教思想を前提にし て、並行する他の事例との比較検討をすることができる。それによって国際的関係の中 で、その特徴を明らかにできるだろう。また、本発表ではキリスト教の側から研究した が、日本的キリスト教論の同時期に仏教や神道の側で民族的な意識とのどのような接合 を行ったのかを調査をする必要がある。さらに、魚木らは日本的キリスト教を東アジア に布教しようとしたが、日本の民族的な意識を普遍的なものとすることはできなかった ために、挫折した。この挫折の一因は、ドイツ、アメリカのキリスト教に関心を寄せて いても、中国や韓国のキリスト教に対する注目が全く欠けていたところにあるだろう27。 この帝国主義的な態度に基づく不均等な視野の原因を明らかにするためにも、当時の日 本のキリスト教と中国・韓国とのキリスト教との関りを明らかにする必要があるだろう。 これらの課題については、今後取り組んでいきたい。
2.日本基督教历史中的日本基督教理论 日本基督教的理论是由属于不同基督教教派的人构建而成的,但其中心人物属于联合教会。例如,最早的日本基督教理论由联合教会的牧师海老名弹正(1856-1937)发行。此外,提出整合的理论主张的鱼木忠一(1892-1954)也是联合教会的牧师。围绕联合教会为中心继续进行讨论的主要原因有三个。一、在日本新教、基督教的历史上,联合教会是最早在日本传播的主要教派。二、其领导者都是武士家族的后代。此外,三、他们倾向于在神学方面进行自由的尝试。
联合教会的英语是“congregational church"(公理会)。在幕末时期前往美国的安中藩士新岛襄(1843-1890),作为一名传教士,回国后开始传教。以此为契机扩大了基督教的势力。(8)新岛于1875年在京都成立了同志社英学校(现为同志社大学)。由于联合教会具有尊重思想自由和教会自治的传统,因此在同志社大学学习过的人才一般会选择致力于研究基督教思想的全新课题。例如,日本基督教理论的先驱者海老名曾与植村正久(1858-1925)在自由主义神学方面展开了辩论(9)。而同样是在明治初期传入日本的长老派教会,长老组织会监督教派的教会,并重视信仰的传统规范(10)。植村是美国和英国的长老派系传教团联合成立的教堂的牧师,他批判拥护自由主义神学的海老名。他尤其批判海老名开展的以儒家文化为基础对基督教的理解,并呼吁人们应该在基督教的传统理论的基础上来展开对基督教的理解。
其次,我想说明日本的基督教与德国基督教之间的关系。在试图向日本传教的联合基督教团体之中,美国传教团体的教会获得了很大的势力。(11)但是,从19世纪后期到第二次世界大战结束后不久,德国成为了主导全球新教徒的基督教思想的地区(12)。日本的神学家或是去德国留学,或是前往美国,或是在德国学习,或是向移居至美国的美国神学家学习神学。在此种形势的基督教思想的背景下,德国的神学对日本产生了深远的影响。
如上所述,尽管日本的新教的基督教作为一个教派,在很大程度上受到了美国传教团体的影响,但在基督教的思想方面却向德国学习了很多知识。因此,鉴于不同教派的理论也有所不同,在我们理解日本基督教时,必须要考虑到日本基督教与德国、美国基督教的关系。
3.日本基督教理论的时代环境和基本结构 由于日本基督教理论争议的时间较长,争议的内容的范围非常广,因此我想在本发表只取其中一部分来探讨研究。在日本基督教理论之中,鱼木提出了最为完整的理论。因此,我会选取鱼木于1941年发表的著作与同一时期其他人发表的著作。然后,为大家阐明如何将基督教与其他宗教联系起来。
首先我想围绕日本基督教理论,在理论方面参考鱼木的理论来展开说明(13)。根据鱼木的理论,对日本基督教理论的关注点包括三点。其一,对基督教的关注,也是在永恒在历史中把握理论的目标。德国基督教为了证明基督教本质的历史学来探索基督教信仰的本质,而鱼木则是在此基础上研究德国基督教研究的动向,同时努力实现这一目标。其二,基于日本的社会和文化来诠释基督教。鱼木对诠释学非常感兴趣,并且试图探索在圣经和基督教的传统方面,日本与西欧文化的文理可能具有的不同的诠释。尤其是传教团体倾向于对其他宗教持否定态度,将美国本国的教派对立照搬到了日本。对此,鱼木着眼于日本的各种宗教之间的相互影响,在日本基督教理论中寻找日本的基督教超越教派对立的可能性。其三,日本的宗教与国民意识的关系。鱼木认为,由于日本诞生了国民意识,才会产生讨论日本基督教的潮流。日本的基督教徒的思想之所以没有停留在接受传教时的状态,是因为他们自觉通过国民意识去理解能够给予全新的自己以救赎的基督教。并且,通过这一尝试,鱼木开始寻找一种植根于日本各教派之中的基督教的观点(14)。
尽管鱼木是在上述背景下谈论日本基督教,但与鱼木处于同一时代的日本基督教并非与社会的动向无关。20世纪30-40年代不仅是鱼木出版其著作的高峰期,是日本基督教出版与基督教相关的著作的高峰期。1931年,满洲事变发生;1935年,日本发布了国体明徴声明。接下来,抗日战争于1937年爆发,日本推动了国民精神总动员运动。恰逢日本人对国家和国民为何物产生疑问的时期。此外,1939年,日本政府颁布了《宗教团体法》,以此为契机,各派新教徒摸索着联合不同教派的势力。1940年,日本举行了庆祝皇纪2600年的全国基督教教徒大会,宣布将继续推进建设“大东亚新秩序” (15),并于1941年成立了联合各个教派的日本基督教团。但是,在日本战败之后,关于日本基督教的议论几乎全部消失了。因此,尽管鱼木于1948年出版了与基督教相关的著作,但可以说基督教的发展与时代息息相关。但是,我们不能仅仅将基督教批判为与国家政策结合的一个时代的产物,还有许多其他需要斟酌的内容。
如上所述,对于鱼木而言,他关注的是了解基督教的本质,并在日本的文理背景下诠释基督教。但是,当我们在某种文化或社会中诠释基督教时,并非一定要涉及日本民族主义。并且,日本的国民意识,也就是第三个关注点可以归因于日本基督教的兴起,因此在性质上与鱼木的另外两个关注点有所不同。另一方面,在同一时期,还有一位站在不同立场上的人物——牧师柏木义円(1860~1938)。他接受社会主义,反对满洲事变。他曾接受过海老名弹正的洗礼,并在同志社大学学习过一段时间,但他获得了与鱼木不同的思想倾向。
此外,日本基督教的理论与德国基督教的发展情况相似。在德国,随着纳粹组织的崛起,德国基督教运动也兴起了。1933年,为了支持纳粹分子,德国成立了帝国教会。为了与其对抗,卡尔·巴特(1886年5月10日 - 1968年12月10日)成立了告白教会。巴特在16岁的少年时期加入社会民主党,并在二战结束后对苏联抱有好感(17)。
但是,与柏木和巴尔特不同的是,必须等到二战后,才能在正式地重新评估基督教内的民族和基督教之间的联系(18)。因此,民族主义的观点,即国民意识,是这个时代的日本基督教理论的特征。因此,比起批判基督教和民族之间的联系,阐明试图使基督教和民族联系起来的思想和社会背景,将会成为未来将过去与现代社会进行比较的首要课题。
日本基督教理论的基本结构是,通过日本精神或国民意识来联系各个宗教,并由各个宗教携手为国家的发展做贡献。日本精神和国民意识都是多义词,因此每一位论者都需要仔细斟酌词语的意义。而这两个词语都与日本这个民族的自我理解密切相关。 例如,对于鱼木而言,自身必须具有基督教精神,因此相比日本精神,他会更常用国民意识这个词语,主张基督教与民族之间具有很强的联系。鱼木认为,在讨论日本宗教史时,通过基督教、佛教、儒教、神道的相互影响,日本的基督教徒能够以国民意识来诠释基督教(19)。正如日本存在着日本佛教和日本儒教两个词语,他认为日本基督教不会停留在传教时的状态,有可能形成日本独特的形式(20)。他还谈到了神道、佛教、基督教的三教论题,并与西方的信仰自由的概念进行对比。尽管信仰自由承认其他宗教的存在,但依然停留在不闻不问的阶段。但是,这三种宗教可以彼此加深联系,以进一步携手支持国家的发展(21)。因此,鱼木认为,经过各个宗教的相互联系的历史,最终由国民意识的影响对日本基督教的成立起到了决定性的作用。
曾在卫理公会教堂担任过牧师的今井三郎(1885-1942),采用了比鱼木更简单的方法,通过与鱼木相似的理论结构讨论日本基督教。换而言之,正如佛教和儒教在日本的民族意识中得到消化,进而演变为日本佛教和日本儒教一样,基督教也可以变成日本基督教。如果说基督教是拯救日本的宗教,那么当然就是日本的宗教。并且,日本的各种宗教都能够为民族发展做出贡献。根据金井的言论,日本基督教的根据在于基督教的核心——“爱”,这同样也是日本精神的重要要素。基督教将这份“爱”变得更加确凿,由此奠定了日本精神在宗教方面的基础(22)。同样,佛教和神道也处于奠定基础的阶段,并且也在发扬日本精神。并且,这些宗教都符合日本精神,因此可以说各种宗教都是一致的。
我再举一个更极端的例子,这个例子的主角是联合教会的牧师藤原藤男。在藤原看来,基督徒在成为基督教教徒之前就是日本人,因此基督徒也具有日本精神(23)。倘若按照相同的论法进行推理,那么日本的佛教徒在成为佛教徒之前就是日本人了。
如上所述,鱼木、今井、藤原的问题就在于,作为一名日本人的前提下信教,并相信自己具有日本精神和国民意识等民族意识。因此,他们的信仰是在民族意识下重新诠释的。这个思想隐含地适用于其他宗教,并在日本精神的基础上被统一解读。因此,在日本基督教理论的基本结构中,是民族意识使各种宗教互相联系,并且各种宗教都会协助国家的发展。
当然,互相联系的方式并不清晰,我们无法判断各个宗教是否真的在这方面达成了一致。但是,即使事实不清晰,在基督教思想的背景下,也不能轻视日本基督教徒和一般基督教徒之间的联系。因为,基督教要求每个人都公开自己的信仰,因此无法避免由哪一个“自己”来回答这个问题。二战后,学者们通过将被基督教赦免的罪人与那些拥有基本人权的人联系起来,开展了关于“哪一个我”的问题的讨论。例如,天主教会在约翰23世于1963年颁布的通谕“地球上的和平”中,积极地承认人权(25);并且在基督教与其他各种宗教的对话中,尊重人权也成为了各个宗教的连接点(26)。但是,这种将人权成为普遍价值的尝试在现代受到了质疑。各个宗教之间关于人权的内容存在着争论,并且民族和宗教之间的联系的情况也和过去完全不同。
结语
本发表旨在采用从1880年左右延续到1945年的日本基督教的思想谱系,主要说明其思想背景与影响日本的基督教思想的德国和美国之间的关系,并在此基础上阐明1930年以后日本基督教理论的基本理论结构。其结构是根据日本的民族意识将基督教、佛教、神道结合起来,以便将各个宗教打造为国家发展的基础。这种想法本身并不新颖,而其结合也不具有具体性。但是,通过民族意识来为它们建立联系,正是理解基督教信仰的方法,同时也是不可脱离基础来讨论的问题。并且与当时的德国同时发展的情况具有相似性。另一方面,接受了马克思主义的基督教思想则是与之相反。二战结束后,人们将基督教的人道观点与基本人权联系起来,以便试图理解跨教派和民族的普遍信仰,但现今依然存在着没有解明的问题。
若是在此种时空和地理的背景下回顾历史,我们会发现日本基督教理论并非日本独有的现象。鉴于二战前的基督教的思想与现在不同,我们可以用其他平行事例来与其进行比较和讨论。这将有助于我们阐明其在国际性关系中的特征。并且,本发表从基督教的角度展开了研究,同时也有必要调查佛教和神道在日本基督教理论的同一时期是如何与民族意识联系起来的。此外,鱼木等学者试图将基督教传播到东亚其他国家,但由于无法将日本民族意识变成具有普遍性的事物,而在传教的过程中遭受了挫折。受挫的原因之一,便是他们虽然非常关注德国和美国的基督教,但却完全缺乏对中国和韩国的基督教的关注(27)。为了解明基于帝国主义态度而导致没有均等地看待世界各国的基督教发展的原因,有必要查明当时的日本基督教与中国和韩国的基督教之间的关系。今后,我想专心致力于研究这些课题。
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